彼は結婚したばかりの出稼ぎの若い男性です。妻とは仲がよく、子供も利口です。しかし一家を養うためには、毎日せわしなく立ち働かなければなりません。
彼は中年になったホワイトカラーで、衣食に困らない生活をしています。だが、昇進し、給料を増やすためには、懸命に残業しなければなりません。彼はいろいろと付き合いがあり、仕事が終わってもすぐには家に帰られません。
彼は60歳を過ぎた金持ちです。他人に対して面目が立つが、家に帰った後、子女たちが家産を陰に陽に争うということに直面しなければなりません。
どの人も完璧を渇望しています。家庭が円満でなければならないだけでなく、事業も成功しなければなりません。名誉・財力ともに手に入れなければならないだけでなく、心も充実しなければなりません。生活に対するいろいろな不満と無念さを抱いているこの三人はある日出会いました。
出稼ぎの若い男性は安定した仕事を持つホワイトカラーを羨みます。ホワイトカラーは事業が成功した金持ちを羨みます。金持ちは出稼ぎの若い男性の円満な家庭を羨みます。彼らは、生活が人の望みどおりにならないと文句を言い、努力し奮闘し、運命を変えると誓います。
十数年後、出稼ぎの若い男性は裕福な生活を送るようになったが、退勤した後時間通りに帰れなくなり、交際のため、いつもいろいろな社交場に出て酒食遊楽にふけ、惑溺します。ホワイトカラーは事業が成功した社長になりましたが、しかし自分の財産が他人にもくろまされないように常に用心しなければなりません。だが、金持ちはすでに亡くなり、彼の子女たちはただ彼の命日に彼の墓の前に花かごを並ぶだけです。
現実な生活の中の私たちに目を向けてみましょう、私たちそれぞれが「出稼ぎの若い男性、ホワイトカラーと金持ち」のいずれかではありませんか。貧しい時、安逸な生活にあこがれます。衣食に困らない生活をした後、富貴になることを渇望します。だが、富貴になって高い地位を得た後、心がもっとむなしくなります。
燕は秋に去ってまた春に来て、青草は春風が吹いて生え、だが人生を過ぎた後には振り返せない。私たちは限りのある時間内で懸命に金銭と名利を奪い取り、手に入れれば幸せになると思ったが、結局のところ、認めざるを得ないのは、金銭は心の安らぎを買えず、名利は内心の孤独感を覆い隠せない。歳月をむなしく過ごし、私たちが残っているのはむだに時を過ごした感嘆と残念な思いだけです。
神様が言われた「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」(マタイによる福音書16:26)「人の運命は神の手で管理されている。あなたは自分自身を管理することはできない。いつも自分自身のことで忙しくしているのにもかかわらず、人は自分自身を管理することができないままでいる。あなたがもし自分の将来を知ることができ、自分の運命を管理できるなら、あなたは被造物だろうか。⋯⋯人の終着点は造り主の手にあるのだから、人はどうして自分自身を管理できるだろうか。」「ある者にとって神が存在せず、神が見えず、神による統治を明確に認められない場合、毎日は無意味であり、無価値であり、悲惨である。」
私たちそれぞれの出生、成長、家族と一生従事する職業はみな造物主の御手に握っています。もし私たちは限りのある時間に神様の支配と定めを順服できないところが、かえって神様の支配から逃げると企て、自分の野心と欲望を満足したら、それは時間と生命を無駄に過ごし、得たのは虚しみと苦しみだけです。幸せになるはずがありません。
神様が言われた:「その者がいる場所、その者の職業を問わず、その者の生業やその者の目標追求は、その者に終わりなき悲嘆と癒やされることのない苦痛をもたらすだけで、顧みるに耐えがたいものである。その者が創造主による統治を受け入れ、創造主の指揮と采配に従い、真の人間生活を求めた時のみ、その者はそうした悲嘆や苦痛から徐々に解放され、人生のあらゆる空虚感が払拭されるであろう。」
ここで、私たちは一生金銭と名利と地位を求めるため、苦労して駆けずり回り、結局幸せになれないだけではなく、その上虚しく苦しんで生きています。その原因は私たちは神様の御前に戻さず、神様の支配を認識できず、いちずに自分の欲望に従い、自分の能力で所謂幸せを求め、結局金銭と名利等サタンの試しに誘惑されたことが分かります。そのため、私たちは神様の支配と定めに従い、御言葉の通りに毎日を過ごしてこそ、平安と安らぎで生き、これこそ幸せな人生を得る秘訣です。
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