神様の裁きと刑罰をどのように経験し、真理と命を得て、罪深い本性を消し去り、救われて天国に入るのかということですが、この質問はとても重要で、私達の行く末と終着点に深く係っています。全能神の言葉を読んで、真理のこの側面を確かめましょう。
「神への真の信仰とは、神はすべてのことに支配権を持つという信念に基づいて神の言葉と働きを経験することを意味する。堕落した性質から解放され、神の望みに応じ6、神を知ることができる。そのような道程を経てのみ、神を信じていると言える。」
『言葉は肉において現れる』の「序文」より
「言葉を語ることによる現在の過程が人間を征服する過程である。人々は、具体的にどのように協力するべきだろうか。これらの言葉を飲食し、また理解することによってである。人々は自分の力によっては征服されることができない。彼らはこれらの言葉を飲食することによって自分たちの堕落と汚れ、自分たちの反抗的性質と不義とを知り、神の前にひれ伏さなければいけない。もしあなたが神の心を理解し、それを実行に移し、そしてさらにビジョンを持ち、これらの言葉に完全に従い、自分勝手な選択をしないなら、あなたは征服されるであろう。そして、あなたを征服するのは、これらの言葉であろう。」
『言葉は肉において現れる』の「征服の働きの内なる真実(1)」より
「神の言葉を食べ飲みすること、真理や神の言葉における神の意図の探究、そして万事において神の旨を把握しようとする必要があります。これが最も基本的かつ重要な実践方法です。これはペテロがイエスに会った後に行った事で、最大限の成果を得るには、この方法で実践するほかありません。神の言葉に心から捧げることとは、おもに真理の追究、神の言葉に含まれている神の意図の追求、神の旨の把握に重点を置くこと、神の言葉から一層多くの真理を理解し、得ることを意味します。神の言葉を読む時、ペテロは教義には重点を置かず、またペテロが宗教学的知識を得ることに置いた重点は、それ以下でした。ペテロは、むしろ真理の理解と神の旨の把握、神の性情といとしさに到達し、それらを理解することに重点を置きました。ペテロは、神の言葉から人間の様々な堕落した状態を理解し、人間の堕落した本性と真の欠点を理解して、神を満足させるために神の人間に対する要求を全面的に満たそうとしました。ペテロによる神の言葉の正しい実践は極めて多数にのぼりますが、それは神の旨に最も則したものであり、神の業の経験における人間の協力として最適なものです。神から数百にのぼる試練を受けるにあたり、ペテロは人間に対する神の裁きのあらゆる言葉や、人間に対する神の啓示のあらゆる言葉、人間に対する神の要求に関するあらゆる言葉と比較して自らを厳しく検討し、神の言葉の意味をつかもうとしました。ペテロは、イエスが自分に述べた全ての言葉を真剣に考察し、記憶して、極めて良い成果を達成しようと努めました。こうした実践により、ペテロは神の言葉から自分に関する知識を得ることが出来ました。またペテロは人間の様々な堕落した状態を理解するのみならず、
人間の本質や本性、人間の様々な欠点も理解するようになりました。これが自分自身の真の理解です。ペテロは神の言葉から自分に関する真の理解を得たのみならず、神の言葉に表された物事、つまり神の義なる性情、神の総体、神の業における神の旨、人間に対する神の要求といった言葉から、ペテロは神を完全に知りました。ペテロは神の性情と真髄を知り、また神の総体を理解し、神のいとしさ、人間に対する神の要求を知りました。当時、神は現在ほど話をしなかったにもかかわらず、それらの側面においてペテロの中で成果が生まれました。それは、まれであり、貴いものでした。ペテロは数百回の試練を受けましたが、その苦しみは無益ではありませんでした。ペテロは神の言葉と業から自分自身を理解したのみならず、神を知りました。またペテロは特に神の言葉にある神の人間に対する要求、そして人間が神の旨に則するために人間が神を満足させるべき側面は何か、ということに重点を置きました。ペテロはその側面について甚大な努力をし、完全に明瞭な理解を得ましたが、それはペテロ自身の真摯な取り組みにおいて極めて有益でした。神が何を言おうと、その言葉が自分自身のいのちとなり、それが真理に属するものである限り、ペテロはそれを肝に銘じて頻繁に検討し、理解しました。ペテロはイエスの言葉を聞いた後、それを心に留めることが出来ましたが、それはペテロが神の言葉に殊更重点を置き、最終的に真の成果を得ました。つまり、ペテロは神の言葉を自由に実践し、真理を正確に実践し、神の旨に則し、完全に神の旨に則して行動し、自らの意見や想像を捨て去ることが出来ました。こうしてペテロは神の言葉の現実性に真摯に取り組みました。」
「ペテロの道を行く方法」より
神様を信仰することの意味を、まず理解する必要があります。信仰とは神様の言葉と働きを体験して、真理を知り、真理の現実を生きることでそれが神様を信仰するということです。終わりの日の神様の働きは言葉で裁くことですので、堕落した性質を清め、救われたいのなら、まず神様の御言葉に力を入れて、心から読み、神様の御言葉による裁きを受け入れることです。神様の言葉がどんなに辛らつに響き 苦々しくても、神様の言葉は全て真理であり、私達が生きるべき命なのです。神様の発言は全て私達を清め変え、堕落した性質を脱ぎ捨て救われ、真理を理解し、神様のことをもっと知ることができるようにすることです。神様の言葉による裁きと刑罰、取り入れと扱いを受ける必要があります。神様の言葉の意味する真理を得たければ、苦労してでも真理と御言葉に従い、御言葉の持つ真理を求め、御心を感じ、自分を見つめ直し、御言葉によって、横柄さ、欺瞞、 わがまま、卑しさを自覚し、神様とどう取引し、利用し、騙し、真理をもてあますなどのサタンの性質も、信仰にある不純さや祝福を狙った裏心も自覚しなければなりません。そうすると徐々に堕落の真実と自分の本質が見えてくるでしょう。真理をより理解すると神様への認識が深くなり、神様がどのような人を賛美し 嫌うのか、どのような人を救い、逆に滅ぼし、どのような人を使い祝福するかがわかるようになるでしょう。そうすると神様の性質が理解できます。神様の御言葉による裁きと刑罰を、経験するからこそできることです。真理を追究したければ、御言葉による裁きと刑罰を経験すること、全ての真理、 御言葉を実践して、神様に従うこと、それができる人は神の言葉を体験することによって真理が徐々に理解でき。救われて完全にされるでしょう。神様の示した真理により、神様の出現と働きに気が付いても真理を愛さない者は、神様のために全てを犠牲にして、本分を尽く限り救われると思っています。どんなに長く信仰をしていても、結局は真理も命も得られません。真理も現実も理解していると思い込んで、知っているのはちっぽけな言葉や文字や理論だけ、自分に嘘をついているので、間違いなく神様に見捨てられます。どうやって神様の働きを経験し、救われるのか?全能神の言葉をもう少し読んでみましょう。
全能神は言われた「人間が神の言葉を実践する時のみ、いのちが真に花開くのであり、単に神の言葉を読むだけでは、それは成長できない。神の言葉を理解しさえすれば、いのちと霊的成長を得ることができる、というのがあなたの信仰ならば、あなたの理解は歪んでいる。神の言葉の真の理解は、あなたが真理を実践する時に生まれる。あなたは『真理は、実践して初めて理解できる。』ということが解からなければならない。」
『言葉は肉において現れる』の「真理を理解したらそれを実行せよ」より
「ペテロは、神を信じる中で、全てにおいて神を満足させること、そして神から来るもの全てに従うことを追い求めた。そしてペテロは不平一つ言わず、刑罰や裁きと同様に、精錬、苦難と生活上の欠乏も受け入れ、そのいずれも彼の神への愛を変えることはなかった。これこそ神への究極の愛ではないだろうか。これこそ被造物の本分を尽くすということではないだろうか。刑罰、裁き、試練――これらの中にあっても、死に至るまで従順であることができ、そしてこれこそが、被造物が達成すべきことであり、純粋な神への愛である。仮に人がここまで達成できたのなら、その人は被造物として相応しいということであり、これ以上創造主の満足を得られることはないであろう。」
『言葉は肉において現れる』の「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」より
「あなたが追い求めるものが真理であり、実践することが真理であり、それによってあなたが得るものが自分の性質の変化であるなら、あなたが歩む道は正しいのである。もしあなたが追い求めるものが肉的な祝福であり、実践するものが自分の観念による真理であり、自分の性質に変化がなく、また肉において神に全く従わず、未だ曖昧さの中に生きているのであれば、あなたの追い求めるものはあなたを確実に地獄へと導くであろう。なぜなら、あなたの歩む道は失敗の道だからだ。あなたが完全にされるか排除されるかは、あなた自身の追求にかかっている。つまり、成功するかどうかはその人の歩む道にかかっていると言える。」
『言葉は肉において現れる』の「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」より
「ある者が神が要求する物事や言葉によって神の言葉の現実性に対する真摯な取り組みを本当に行うことが出来るのであれば、その者は神により完全にされるでしょう。そうした者に対して神の業と言葉は完全に有効であり、神の言葉がその者のいのちとなり、その者が真理を得て、神の言葉に則して生活できると言えます。その後、その者の肉の本性すなわちその者元来の存在の基礎は揺るがされ、崩れるでしょう。ある者が神の言葉を自らのいのちとして得た後、その者は新たな人間となります。神の言葉がその者のいのちとなります。神の業の幻、人間に対する神の要求や啓示、人間が実現するよう神が要求する真のいのちの基準が、その者のいのちとなり、その者はそうした言葉と真理に従って生活し、その者は神の言葉により完全にされます。その者は神の言葉によって生まれ変わり、新たな人間となります。」
「ペテロの道を行く方法」より
全能神は言われます。「人間が神の言葉を実践する時のみ、いのちが真に花開くのであり」。これは真理ですとても実際的だわ!神様の御言葉を実践も体験もしない信者は真理を得ません、真理を得ずに命を得ているとは言えません。ペテロの真理の求め方について全能神はおっしゃっています。ペテロは真理を求める人で、神様をどう愛するか考え、いのちの性質を変えようとし、神様の裁きと刑罰そして試練を受け、精練され神様に従おうとしました。たとえ主が彼をサタンに引き渡しても、死ぬまで逆らいませんでした。逆さ磔にされ、美しくて響く証しをしました。ペテロは信仰を注意深く実践し、心から神様に従い愛しました。説教や奉仕をするだけではなく、真理の実践と現実を知ることに集中したので、神様に完全にされ、認められたのです。ペテロの証しによると救われたいのなら、真理を追求し、神様の御言葉に努力し、真理を求め、神様の御心に気づき、真理を実践し現実に生きることです。そうすれば真理がより理解できるし、それを実践する道も開けてきます。いつの間にか真理の現実に生きていることでしょう。理論だけで満足していたら、真理を実践したり現実に生きることはできません。理論の知識があると傲慢で慢心しがちで、神様も自分自身も知らないままです。終わりの日の神様の働きについては、真理を愛さない者は、神様の言葉による裁きと刑罰を避けてしまい、御言葉が核心を突いているのがわかると神様を避けるので、真理を得ることもないのです。本当に真理を愛するなら、真理を得るためにある程度の苦しみは受け入れるでしょう。神様の言葉による裁きの苦しみに耐え、試練を受け精錬される時にも耐えられるでしょう。家族と離ればなれになっても、実刑を受けても、命に替えてでも神様の証しをしますので、間違いなく真理を得、神様から認めてもらえるでしょう。
『勝利の凱歌』の映画台本から
0コメント